確かに今日のぼくたちの生活の中には、あまりにも多くの“物”があふれすぎている傾向がある。しかしだからといって、必要最低限な“物”だけで、簡素に暮らす方がよいという風にあっさり割り切れるものでもないだろう。ある期間を限った仮住まいならともかく、人間が一つの家に定着した暮らしをはじめれば、その生活の歴史の沈澱物として、物がしだいに溜まってくるのは避けられないものだ。もっとも高度成長時代、日本人は電化製品をはじめとする家財道具をやたらと買いこみ、住宅の広さ、とくに収納量がそれに追いつかないため、物の間にちぢこまって暮らしているというような状態がよく見られたもので、それをよしとするわけではない。
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低成長時代に入った今では、そういう“物に支配された生活”に対する反省のほうが一般的であり、ぼくも、それはそれで正しいと思う。広くもない居間を大きな応接セットに占領されるのは馬鹿げているし、食品店が手近にあり、配達も普及している日本では、アメリカのような巨大な冷蔵庫は必ずしも必要ではない。しかし、こうした考え方が、できるだけ物を持たないほうがよいというところまで走ると、ちょっと待ってくれと言いたくなるのだ。日本には昔から、つまり高度成長への批判などとは関係なく、物にこだわるのは卑しいという思想的伝統があるので、物の所有、保存に対する反発も極端に走りやすいのだ。この伝統的な考え方のモデルになるのは、たとえばあばら屋に住むことを理想としていた芭蕉とか、兼好のような世捨て人である。また、日本人の一つの理想である“サムライ”という人格も、物への執着を排するところに成り立っている。